ツイッターに寄生しながら生きて来た中で、初めて規制を食らいました。
ツイートしようとすると「ちょっとまって、お前呟きすぎ。数時間経ったらまたこいよカス」と言われたよ英語で!
これがいわゆる「廃人」の域という奴なんですね、感無量。
と、無表情で書き込んでいます。
久々の日記はさっきまでツイッターに書いていた意見が規制されてかけなくなったので代理でここに書くためです。
べ、べつに、読んでほしいなんて思ってないんだからね(棒)
ツイート内容をとうぎゃったで纏めようかとも思ったけど自分メモの域を出ないのでやめておきます。
さて、話していた内容に題を付けるなら「知識の価値観」みたいなものでしょうか。
私は知り合いの方とツイートの中で歴史に関する話をしていて、そのなかで相手の方が自分の知識を「受け売り」と表現したのが私の中での発端。
それ以前の前提として、私は以前大学講義にて「オリジナルとコピー」についてのレポートをまとめたことがあって、そのなかでの自分の結論は「現社会の大半にオリジナルは存在し得ない」というものでした。(まぁ、そのレポートはインタビューを踏まえて持論を展開したものにすぎず、先駆者の理論をあまり利用していない点で非常に微妙な意見なんですけど)
つまり個人的考えでは知識は受け売りであるべきであるし、受け売りの枠を超える知識などは存在せず、もし存在するのであればそれは「オリジナル」に近い新たな情報であると言える、ということなんです。簡単な話です。
で、その考えを踏まえた上で私は「あと知識は知っていることこそが偉いことだと思うよ。」と呟きます。
これ一言じゃ解りにくいので、意味合いを補足すると、「情報を自身の中に記録でき、それを自分の知識として利用できることは、偉い」、という意味合いになります。
で、これに対するリプライで「少佐は知る手段が有れば量は問題じゃ無いと言ってますが(`_´)ゞ」というものを頂く。
ここで言う少佐とは攻殻機動隊に登場する草薙素子というキャラクターのことで、私はこのキャラが大好きなんですけど、って私の趣味趣向は話がズレるので割愛。
でも、このキャラの世界観を話しておかなければいけないので、触れておくと、攻殻機動隊の世界では人々はサイボーグ化が進み、脳を直接電子空間(今で言う所のネットのようなもの)に繋ぐことが出来る「電脳」という技術が発達している世界が舞台になっており、少佐はその世界の中でも有数のハッカーです。
もっと細かいこと説明する必要があるのですが、取りあえずはここまでで。
で、先刻のリプライに戻ると、「知る手段が有れば量は問題じゃ無い」というのはつまるところ価値は知っている、記憶することにあるのではなく、それを知るまでの手段にある、ということであると。つまり、どんな情報を記憶しているか、ではなく、どんな情報をどのように引き出すか、ということになる。
私はそう考えたので「彼女らには外部記憶装置という手段が常に傍らにありますからねwでも引き出す手段としては今の私たちよりも遥かに迅速に行えるはず。だからそんな台詞も出てくるのだと思います。」と返答。(ここで言う外部記憶装置とは自分の脳領域外に情報を蓄積しておける外部装置のことで、つまりはPCのハードディスク、USBメモリの用なもの。)
まあ、私のこのリプライの返し方が既にズレてしまっているんですけど。。。
何が言いたかったか、というと、少佐自身も外部記憶装置の知識を用いている訳で、本質的にはそれは情報を記憶して、知識に昇華していることに変わりないのではないか、という風に思った訳です。
劇中でも、SAC最終話にてアオイと少佐が偉人達の言葉を引用しながら会話をこなしていくシーンがありますが、あそこの少佐は外部記憶装置を使いながら話しており、その後登場する荒巻課長も「お前達の会話は外部記憶装置無しではついていけないな」とぼやく。
ここから妙な仮説になってしまいます。(ので文体も硬めでお送りします)
彼らの世界の中で、知識となる情報は既に自身の脳みそに記憶するものではなく、外部記憶装置に記録しておくものになっているのではないか、と私は思う。
ともすれば、それはやはり知識を記憶していることと同義ではないか、と。少佐の言う「手段」なんてものははなから存在していないではないか。そして、少佐の持っている「知識」とは今現在の私たちよりも膨大な量ではないか、と。
思った所でもう少し考えてみる。
この話の突っ込みどころはつまり、情報もしくは知識は「覚えておくべきか」それとも「引っ張り出してくるべきか」という所。
その二点で考えるならば、少佐の言う「手段があれば量は問題ない」というのは確かにその通りになる。いちいち膨大な量の情報を覚えずとも、それを検索しはじき出すことを知っていれば、問題ない。
劇中では彼らも検索を日夜利用して事件解決に取り組んでいる。
だが、始めに私の言った「知識」とは外部から取り込む「情報」とは少し異なるのだ。
私は「知識」とはオリジナルから自分の中にコピーされた情報であると考える。それはつまり自分の中の思想や思考と言ったものと結びつく上での情報、ということだ。
「知識」と「情報」は同一視できるものなのか。
知識は自分の中で今まで経験され蓄積された情報と重なりあい出来たもので、情報はただ個別に情報として存在しているものにすぎない。だからその情報を取り出すための手段を得た所で、それで十分である、とは言えないと思う。
決定的さは「関連性」の有無にある。自分の中で蓄積された知識は、取り入れるまではただの情報でも、自分の中に入ると、それまでの経験や記憶と重なりあうことで、その情報に関連性が産まれるはずだ。
例えば、新しいドラマを見るとする。それには知っている俳優が出ており、ひ弱な演技を見せ、昔みていたドラマの豪快なキャラクターとは全く違う役柄を演じている。こんな役も出来るのか、と感心し、感想を持つ。そして、その感想は自分の中にそれまであった俳優の情報に関連づけられて、保存される。そしてその感想は、それまでの経験に基づく知識と共に保存されることで、自分の中に「○○という俳優について」というネットワークを築くことが出来る。
そして、その情報を誰かに開示する時。例えば「ひ弱な演技が出来る俳優は?」と聞かれたとする。すると私の中では先ほど関連付けが行われた俳優が思い浮かぶ。そこで思い浮かべられる俳優は人それぞれだろうが、私の中で関連づけられ、感想づけられなけれたとき、私の中での優位性が産まれる。
だが、ただの情報は違うだろう。ネットの検索が最大の例になる。これは少佐の言う「手段」を現代社会で表せば最良の手段だと言える。だが、一つのキーワードでヒット件数は何万件にもなり、絞り込みに必要なワードを入れたつもりでも、必要としている情報がすんなり出てくるとは限らない。ネットには自分の思い描くような情報が、得てして出てこないことが多い。
それはもはや関連づけをインターネットというシステム内にて繋ぎあわされているだけのものにすぎず、情報を検索した所で自分の中の「知識」とは重なりあわなければ、それは意味をなさないものでしかない。
そう考えると、情報を集めるための手段だけを知っていても、どの情報が正しいのか、求めているものかを照らし合わせるには、結局の所、自分自身の「知識」と照らし合わせる必要があり、その最に「情報」と「知識」として保持しておくと、そこからまた新たな情報を得ることが出来るようになる。
だからこそ、「知識」は「情報」よりもあってしかるべきであり、記憶し、持っておくべきものなのだ。手段以前に、知識を持っていなければ何も出来ない。
少佐の場合、外部記憶装置という膨大な知識を持っているからこそ、手段があればそれでイイ、と言い切れるのではないか。自分の中で必要としている情報を簡易に、自分の中の知識と照らし合わせられるからこそ、「知る手段が有れば量は問題じゃ無いと言えるのであると思う。
そして、その台詞を私たちが使うのには、まだ早過ぎるのではないだろうか。
という、つまらない結論に落ち着いた。
でも考えて見ると面白かったので良しとする。
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