エヴァ破ブルーレイが届いてから、熱が冷めません。
今日は学校から退散した後に髪を切りに行って、その足でまっくん用のwebカメラを買いに行きました。
あそこのベスト電器卑怯。
DVDとかゲームは分かるけどなんでフィギュアとかも売ってるんでしょうか。
意味が分かりません電気屋。
買っちゃいましたよリボルテック覚醒初号機。
ええ、言葉の意味が分からない人はそっとしておけばいいと思います。
家に帰って早速飾ってみたけどなにこのかっこよさ。
あまりにかっこ良かったので周りをぬいぐるみで取り囲む事にしました。
カバディカバディカバディカバディカバディカバディカバディ。
そっからベッドに倒れ込んだら八時まで寝てたという。
部屋の掃除しようと思ってたのにやる気起きないので、とりあえずご飯つくって、食べ終わって、今この文章を書いています。
ご飯食べてるときにまた見たんですよ、エヴァ破。
これで通算何回目かな。
劇場で2回?3回かな、見に行って。
こないだテスト勉強前に見て。
今日夕食食いながら見て。
5回目か。
よくもまあ飽きないものです。
見終わって一息ついて、改めてエヴァの特典とかも見てたんですが、パッケージ見てサブタイトル読んでようやく納得した気がしました。
ここからちょい長めに考察しますので読まなくて結構↓↓(改行も普通です)
ネットを徘徊して感想を見てみると批判的な意見も多かったのに驚きました。
でもここで批判的な態度を取っているのはたいていが旧作のTVシリーズを視聴していた人や、旧劇場版を好いていた人だったように感じます。
その多くが「旧作のようなペシミスト的表現を望んでいた」というような意見(もしくはそう感じられる意見)を書かれていました。
しかしながら今回の序、そして破に関されているタイトルは「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」であり「新世紀エヴァンゲリオン」ではない事を指摘したい。
序の発表の際にチラシに庵野監督のコメントが乗っていたのを思い出します。
そこで庵野監督が述べていたのは「エヴァンゲリオン」が「ヱヴァンゲリヲン」に変わらなければならなかった理由なのではないでしょうか。
本棚に眠っていた序のパンフレットを引っ張りだしてきて、その監督のコメントをもう一度読んでみると、そこにはこう書かれていました。
以下、コメント文を交えて考察します。
【我々は再び、なにを作ろうとしているのか?
「エヴァンゲリオン」という映像作品は、様々な願いで作られています。
自分の正直な気分という物をフィルムに定着させたいという願い。
アニメーション映像が持っているイメージの具現化、表現の多様さ、原始的な感情に触れる、本来の面白さを一人でも多くの人に伝えたいという願い。
疲弊しつつある日本のアニメーションを、未来につなげたいという願い。
蔓延する閉塞感を打破したいという願い。
現実世界で生きていく心の強さを持ち続けたい、という願い。
今一度、これらの願いを具現化したいという願い。
そのために今、我々が出来るベストな方法がヱヴァンゲリオン再映画化でした。】
この中で庵野監督は「エヴァンゲリオン」という作品が多くの”願い”から作られている事を挙げています。
表現の自由さや、面白さ、それらを多くの人に伝えたい、現在の閉塞感ある世界に対して、未来につながる作品にしたい、それらの願いを凝縮して”作る”のが「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」なのではないか。
【10年以上昔のタイトルを何故今更、とも思います。
エヴァはもう古い、とも感じます。
しかし、この12年間エヴァより新しいアニメはありませんでした。
閉じて停滞した現代には技術論ではなく、志を示すことが大切だと思います。本来アニメーションを支えるファンそうであるべき中高年のアニメ離れが加速していく中、彼らに向けた作品が必要だと感じます。
現状のアニメーションの役に少しでも立ちたいと考え、再びこのタイトル作品に触れる事を決心しました。】
今回の新劇場版は全4作。
序、破、Q(急)、未定。
この四作の中で、庵野監督はそれらの”願い”を実現させようとしています。
その発端は現状のアニメーションの停滞、であり中高年に向けてのメッセージであったのかもしれません。
しかし同時に未来を目指すための再構築であった事もこのコメントから伺う事が出来ます。
【(中略)
「エヴァ」はくり返しの物語です。
主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話です。
わずかでも前に進もうとする、意思の話です。
曖昧な孤独に耐え他者に触れるのが怖くても一緒にいたいと思う、覚悟の話です。
同じ物語からまた違うカタチへ変化していく4つの作品を楽しんでいただければ幸いです。】
破の話の流れを否定的に見る方が最も見失っている部分の答えは、すべて上記の文章に詰め込まれているのではないでしょうか。
エヴァは繰り返しの物語。
迫りくる使途を一体、また一体と殲滅していく物語。
怖い思いをしながら、痛い思いをしながら、それでもそれに立ち向かう事が出来るのは自分だけである、そう告げられた者の物語。
そして注目すべきは、”わずかでも前に進もうとする、意思の話です。”という言葉にあると思います。
旧作のシンジはエヴァから一度は降り、それでも立ち向かったものの、最終的には大きすぎる壁に対して”立ち向かっても無駄なんだ”と吐き捨てました。
それ故に旧作品はシンジの停滞で終わり、旧劇場版では人類は液状化し、同一、一体化する。
それ以上の進化は望まれず、逃げ出していたシンジは立ち向かったアスカと二人だけ残されてしまったという結果になってしまった。
この二人は旧作ではどちらもが他者との関わりを拒絶していたキャラクターでした。
その拒絶をシンジは逃げ出すというカタチで行い、アスカは戦うというカタチで行った。
つまりここには”わずかでも前に進もうとする、意思”ではなかった事が分かります。
何故庵野監督はこのコメントを新劇場版に残したのか。
それは旧作であきらめてしまった二人のキャラクターをわずかでも前に進ませようと言う意志だったのではないでしょうか。
そのために破は大幅に形を変えて、作られる事になった。
序を思い返せば目新しいところは多くなかったように思います。
それは庵野監督が言う昔のファン層への、今の技術が出来るエヴァンゲリオンの再現だったのではないか。
そして、破はわずかでも進めなかったキャラを進ませるために昔の基盤を”破”壊するための物語だったのではないか。
序のサブタイトルは「YOU ARE (NOT) ALONE.」
あなたは一人、それでも一人ではない。
一人でいいと考えるシンジの成長を示し、同時に人間らしからぬレイがシンジに心を開いていくきっかけの話としてすばらしいタイトルではないでしょうか。
そして破のサブタイトルは「YOU CAN (NOT) ADVANCE.」
与えられたエヴァという力を拒むシンジ。(NOT ADVANCE)
一人で出来ると考えるアスカ。(NOT ADVANCE)
人形のように振る舞うレイ。(NOT ADVANCE)
父親にほめられる事で力を受け入れようとするシンジ。(ADVANCE)
他者との関わりを楽しいと感じ始めたアスカ。(ADVANE)
人間らしく振る舞い始めるレイ。(ADVANCE)
3号機(アスカ)をダミーによって殺害された事で逃げ出すシンジ。(NOT ADVANCE)
使途によって汚染されてしまったアスカ。(NOT ADVANCE)
シンジを引き止める事が出来なかったレイ。(NOT ADVANCE)
そして、それでもシンジのために、シンジがエヴァに乗らなくて住む世界のために動くレイ。(ADVANCE)
そして、逃げ出したところに、レイを救うために再び初号機に乗るシンジ。(ADVANCE)
これはもう旧作になかった”成長”の物語であると思います。
もはやエヴァは停滞と否定をやめ、それを破壊するべく成長を始めた。
破はその先駆けのストーリではなかったのでしょうか。
【曖昧な孤独に耐え他者に触れるのが怖くても一緒にいたいと思う、覚悟の話です。】
破は成長(ADVANCE)と覚悟のための話であったと感じます。
だからこそ、旧作のような停滞は必要なかった。
【最後に、我々の仕事はサービス業でもあります。
当然ながら、エヴァンゲリオンを知らない人たちが触れやすいよう、劇場用映画としての面白さを凝縮し、世界観を再構築し、
誰もが楽しめるエンターテイメント映像を目指します。
2007年初秋を、御期待下さい。】
(以上、ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序パンフから抜粋)
これはもはや、昔の旧作のファンに向けられている作品ではないのは周知されるべき事ではないでしょうか。
2006年のコメントの時点で話の進行が帰られている事は事実であるし、それは破で体現された事です。
これを今更「昔が良かった」といえるのは旧作消費者のわがままに過ぎません。
エヴァンゲリヲン新劇場版はすべての人に向けられて作られた、新たな物語である事を前提に見るべきではないでしょうか。
次回は2011年、Q。
次なるエヴァの成長がどうなるのか、期待です。
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