「アーティストって憧れる」
ぽつりとトーマが呟いた。
私よりも低い位置にあるトーマの顔は、手にもった文庫本のページに釘付けになっていて、その表情は読めない。私がそんなことを思っている間にもぱらりとページはめくられて、文庫本に綴られた物語はそろそろ終わりを迎えそうだった。
私はその様子を少し上から眺めている。
快晴の昼下がり。
雲一つない青空の下は暑すぎるというトーマの進言で、私たちは公園の木々の下で昼食をとった。
トーマは私の手を借りて、普段乗っている車椅子から降りて芝生の上に座り、私といえばトーマが乗っていた車椅子に座っている。
「何かに寄りかかってご飯を食べたい」
そう言ったトーマに対して私は至極普通の提案として「じゃああの木に寄りかかって食べれば?」と言ったのに、「ごつごつしてて座りにくそう」とご不満を漏らすものだから私はトーマが寄りかかれるものとして、車椅子を提供することになった。
トーマは右車輪に寄りかかるように背をもたれて芝生に足をのばし、私はトーマがもたれた車椅子が動かないようにするために腰かける。一応両車輪にストッパーもしておいた。
木漏れ日の中で時折日に照らされるトーマの黒髪は、角度によれば茶髪にも見える。知り合った頃から同じ髪型を維持しているトーマは、その髪の色も「親からもらったものだから」と今時古風な意見で不動のヘアスタイルについて語っていたことを思い出す。それを知っている私としては、茶髪のトーマはあり得ないことなのだろうなと思った。
トーマのつぶやきから数分たっても、続けて「ねぇ、聞いてるんだけど」というトーマの催促がなかったので、先ほどのつぶやきはおそらく独り言なのだろうと結論づける。質問に聴こえないトーマの質問には少し時間をおいて判断するしかない、というのが、長い付き合いからくるトーマ対策の一つだった。
逆に下手に返事すれば返答なんてもらえず、すぐそばに相手がいるのに独り言を話したような孤独感を感じてしまう。知り合った頃は一種のいじめかとも思ったものだ。だが本人は全く悪気もないので余計にたちが悪い。
だから、私はトーマに言葉を返さず、その代わりに手元の弁当箱に残った唐揚げを頬張った。
程よい醤油の風味と鶏肉の香りが口に広がる。
この間友人に聞いた唐揚げの作り方は思ったよりも簡単で、これなら今後もメニューの一つとして加えられるかもな、と私は思った。
ゆっくりと時間をかけて唐揚げ咀嚼する。
早食いは胃にたまりにくいそうだから、固形物がなくなるまでこれでもかと噛み続けた。
その間もトーマは文庫本を読み進めている。私の耳に入ってくるのは自分の咀嚼する音と、トーマがページをめくる音、あと時折聴こえる電車の走行音だけだ。
唐揚げを片付けてしまったら、ペットボトルのお茶を手に取って、のどを潤す。口に程よい苦みとお茶特有の甘みが広がって、後味をなくす。最近発売された新商品らしかったが、結構好みの味だったのでこれから見かけたら買うようにしよう、と私は思った。
一息ついて、目線を前に置く。
眼前に広がる町並みを眺める。この間トーマは変化の中にある日常の風景が好きだと言っていたが、私は変わらずにそこにある大きく、壮大な風景こそ好ましいと思う。この巨大な風景の中のどこかに、自分が立っていたり、座っていたり、歩いていたりしていたのだと考えると、自分はここにいると思える気がした。
「うーん」
トーマが唸る。これに反応する必要はなかった。
手元を見ると、文庫本のページも残り少なくなっているようだった。真剣に読んでいると、だんだんと猫背になって前のめりに本を読み込む癖がトーマにはあったので、その表情はますます読み取ることが出来ない。
柔らかそうな黒髪を眺めつつ、トーマの後頭部を俯瞰から眺める光景はどこで見ても変わらないな、と私は感じた。
「よしっ!」
急にトーマが顔を上げて叫んだ。
ようやく見て取れたその表情は、何か良からぬ企みを考えていそうに思えてならない。私は自然とトーマの手にある文庫本へと目線を向ける。おそらく影響されたに違いなかった。
私がそんなことを考えていると、目をキラキラさせたトーマが振り向き様に私に叫ぶ。
「ソーヤ!バンドしようバンド!」
「……またいきなりだな」
「何か弾ける楽器ある?ギターとか、ベースとか、ドラムとか、サックスとか、トランペットとか!ちなみに僕はどれも弾けない!」
「いや、いきなりポジション失ってるぞ、それ」
「大丈夫、僕はヴォーカルをやるから」
トーマの後ろに後光が輝き“まかせんしゃい!!”と書かれた横断幕を見たような気がした。たぶん実際に見たなら幻覚だ。精神科に行く必要がある。
「いや〜、ゼロから何かを作り出せる人って憧れるよね」
目をキラキラ輝かせてそう呟くトーマは余韻に浸るような表情でいる。私はそんなトーマにあきれつつも、その手元の表紙を読んでみた。“ハウス!”と銘打たれた表紙のバックには様々な楽器が描かれている。どうやらバンドものの青春ストーリーらしかった。私は興奮するトーマに優しく諭す。
「憧れるのは良いけどな、現実を考えてからにしよう」
「考えてるよ」
うんうん、とうなずきながら、私の言葉は当然だと言わんばかりの態度で、さも当たり前のようにトーマは言った。
「僕がバンドをするには何が必要か。とりあえずバンドと呼ばれるものには楽器を演奏する人間が必要だ。でも僕は弾けない。じゃあバンドをやりたい僕として出来ることと言えば歌を歌うことだ。幸いなことに合唱の経験もある。じゃあヴォーカルをやろう!って言ってるのに」
いや、論点はそこじゃない。私はあきれつつも言葉を返す。
「いや、出来ることを前提に考えないで、っていうか私のせいみたいに言うな。そもそもだ、私が何か演奏できたとして、それがドラムだったらどうする?ヴォーカルとドラム、妙なパーカッションバンドの誕生だぞ。っていうか合唱はヴォーカルの経験に含めていいのか??」
「え、ソーヤドラムできるの?じゃあ後はギターとベースだなぁ」
「……いや出来ないし。後、普通に人数集めるつもりだったんだな」
「だってパーカッションバンドはさすがに無理があるよ、ソーヤ。まぁソーヤがどうしてもって言うなら考えてみても良いけど……歌詞はやっぱりラップかな?」
「いや、叩けないし、やらないから。どーうしても、やりたくないから」
私が強く否定を繰り返すと、トーマはようやく私の言わんとすることを嫌々ながらも受け入れたようで、その代償としてむくれた表情になる。読み終わったばかりの本の内容がよほど面白かった反面、今の自分の気持ちに反応してくれない私に裏切られた気分にでもなっているのだろう。自分本位なことだ。私は自由気侭なトーマの行動にため息をつくことが日課のようにもなってしまった。
まるで絡みづらい酔っぱらいのようだな、と思う。いまのトーマの状況を本の内容に“酔っている”のだとすれば、なるほど酔っぱらいであるとも言える。本の内容しか見えていない読書中毒。リードホリック。
私は日課のため息をつきながら、むくれているままのトーマに本の内容について聞いた。
「で、内容はどうだったんだ?」
「……面白かった」
「感想はそれだけ?意外だな」
「あるよ!バンドものだけどライブハウスを中心とした話で、バンドの設定から細かくなおかつ簡潔にわかりやすく書いてるし、登場キャラの年齢層も幅広いのにどのキャラもキャラぶれしてないし、所々登場人物たちの謎が置いてあって少しずつわかっていくんだけど最後には大どんでん返しがあったし!あとがきで作者はバンドどころか楽器にすら触れたことがなかったけれど、どうしても書いてみたくて一からバンドのこと調べ挙げて書いた、っていう裏話とか!他にもまだまだあるけどソーヤは否定しかしないだろ!僕だってわかってるよ!言われなくてもバンドが出来ないことくらい!シャレじゃんか、シャレ!ノリが悪い!」
一気にまくしたてるトーマに私は素直に謝るより他になかった。
「……そりゃ……すみませんでした」
「……本当だよ、まったく……」
不満を一気に爆発させたことで少し気分が落ち着いたのか、トーマは柔らかな表情で私に言う。
「でも、憧れるんだよ、アーティストとか、小説家とか、そう言う人たちにさ」
「……」
「これは僕が歩けないからだとか、そう言うものが原因でうらやんでるわけじゃなくてさ。ただ純粋に、自分の好きなものをみて、“ああ、なんで僕にはこれが作れないんだろう、作りたかったこんなもの”って思うことがあるんだよ。その対象を好きになればなるほど、その気持ちは強くなる」
「それは、わかる気がするな」
「たぶん、誰でも一度は思うことなんだと思うよ。音楽しかり、絵画しかり、映像しかり、もしかすれば勉強ができる人をうらやむのも同じことかもね」
「クリエイティブな能力と勉学とはその考え方が違うと思うけどな。何かを“ひねり出せる”って言う点では、同じかも知れないけど」
「そう、僕はそこに憧れる。“何かを作り出せる”ことと同時に“何かをひねり出せる”ことをうらやましく思う。僕にない何かを見せつけられるとものすごい悔しい気分になって、でも好きになる。これはもう永久機関のように続く思考回路だよ」
「そこに自分が加わるって言う選択肢はないの?」
「そこだよね、まさにそこ。僕の駄目なところは四方八方に好きなものを作りすぎて、いざ僕が何かを作ろうってなったときに、何を選んだら良いのかわからなくなる」
「一番好きなものを選べば良い」
「どれもが一番、なんだよ。好きになるとね」
そういってトーマはにこりと笑う。もたれかかった姿勢で、私の顔を見上げながら。いつもの調子のトーマだな、と私は思った。
「好きだから全部やりたい。でも実際そんなこと出来ないし、出来るようになるには時間も能力も足りない。人間が突き詰めて出来ることは所詮ソロプレイで、一人でマルチプレイは難しいんだよ。まぁ僕の場合はやる気がないってのもあげられるけど」
「そこが一番重要だな」
「手厳しいね」
私は座っていた車椅子のストッパーを確認してから立ち上がった。風景を眺めながら軽く、伸びをする。大きく深呼吸を一回すませてから、車椅子にもたれるトーマの体を抱き起こす。
「ありがとう」
「どういたしまして」
トーマの腰に右手をおき、左手は首にまわさせてちょうどハグをするような形で持ち上げる。それから右足で車椅子の方向を自分の正面へ向け、そこにトーマを座らせる。相変わらずトーマの体は軽く、いつものことながら不安すら覚えた。でもこんなときに聞いてもしょうがないので口には出さずに置く。
「やっぱり、視点が高いと景色も違うね」
トーマが言う。私はそれにうなずいて返す。
「“何かを作り出す”ことはさ、ゼロからじゃないんだ。ゼロからはあり得ない。もしそれが出来るなら、それは新しい文化に他ならない」
「でもオリジナルって言葉は?」
「アレは独創的って意味。その人個人の経験、積み重ねから生まれたありそうでなかったものだよ。つぎはぎなんだ」
「つぎはぎ?」
「経験のね。その個人の人生はその人のものでしょ?おんなじ人生なんかあり得ない。同じような経験は存在するかもしれないけれど、そのタイムテーブルとか、分量とかは違う。でもその経験も細分化してみれば昔誰かが行ったことの繰り返しでもあるかもしれない。だから人々の人生は昔のもののリサイクルなんだよ」
「ずいぶんと飛躍したな」
「そう?」
「でも、わからなくもない。私がやってることは私以外の誰かが一度やったことだろうな。60億もいるんだから」
「ソーヤもずいぶんと飛躍したね」
「そうだな」
トーマに車椅子を渡し、私は広げた弁当を片付ける。いつも使っている二つの弁当箱を包めるように大きめの風呂敷を持ってきていた。それを使って弁当箱を包み、トーマの膝に置く。
「だからこそ、人はオリジナルに固執するのかもね。いや、僕は、かな。モノを作れる人に憧れる。60億分の1に憧れる」
「60億分の1、ね」
「だからこそ、僕はうらやんで、悔しがる。僕は無意識にこの体を経験の一つとしているから、どこかで無理だと思っている、それは悔しい」
トーマは膝に抱えた弁当箱の風呂敷をぎゅっと握る。トーマが動かせる唯一のもの。多分、トーマは自分が風呂敷を握りしめ、感情を抑えていることには気づいていない。私はそれを少し見つめて、こう返した。
「60億分の1はいないだろ」
「……」
「いない。トーマの理屈で行くなら、いないよ」
「……まぁ、そうかもね」
「その悩みは誰しもが一度は思ってることなのかもしれない。だから60億分の1はあり得ない」
「……」
そう否定しておいて、私はこう続けるのだ。
「でも、私の知る限り、こんなこと言うのはトーマだけだ。だから、私の世界の中では60億分の1だろ」
「……なにそれ」
「……励まし」
言っておいて恥ずかしくなってきたので、トーマがしっかり弁当箱を抱えているのを確認して私は車椅子を押した。
「え、なに今のソーヤ、デレ?デレなの??」
「うるさいなぁ!人をツンデレ見たく言うな!」
「え、なにそれ。自分がツンデレじゃないと思ってるの、あり得ないんですけどー」
「ふりおとすぞこのやろう」
「あ、ツンだ。ツンが来た」
「トーマ……」
「あっはははは、ごめんごめん」
柔らかい表情で、屈託のない笑顔。背もたれにもたれかかって、その目で私を見上げる。
「ありがとう、ソーヤ」
「……どういたしまして」
私はこの広い変化する景色が好きだ。でも私は私の変わらない世界も同じように好きだ。私は私の目に見える世界が好きなんだ。
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