「魔法使い」
松葉杖を握る腕が震える。両腕が体の重さに必死になって耐えている。バラン スが保てない。歯を食いしばってもう一歩だけ、後もう一歩だけと自分に言い聞かせる。その一歩を目指すために、右足を踏み出して体を支え、松葉杖を進める。そうして、僕の視界は急回転した。
「大丈夫か!?」
声が聞こえたときには、自分が肩で息をしているのに気づいた。体中から滝のように汗が流れていて、額に流れた汗が目に入る。反射的に腕で目をこすって、「ああ、まるで泣いているみたいだな」と思った。
「だから言ったんだ。早すぎるって」
ソーヤの声が頭の上から聴こえてくる。心配しているようで、でもあきれてもいるような声色。どんな表情をしているのかは分からない。確認しようとも、思えなかった。今の僕は腕で顔を隠し、荒い息継ぎを行うので精一杯だ。
「おい、頭とか打ってないか。大丈夫か」
「大、丈夫」
嘘だった。頭は打ってはいなかったが、大丈夫、とは言い切れない。僕の頭の中では「まだ出来たかもしれない」「もう少し腕力があれば」「もう少し体力があれば」「まだ少し」「もう少し」「あと少し」「足が動けば……」と後悔の言葉が駆け巡っている。切れ切れの息継ぎのおかげで、声からは感情を隠すことができた。
「そうか。でも、今日はやめにしよう。アスリートじゃない、無理をすることはない」
ソーヤはそう言って、持っていたタオルを僕に渡し、「車椅子とってくる」と言って僕からはなれた。僕は渡されたタオルで、流れ出る汗を拭き取る。額と顔、首の汗を拭き取っていくと、次第に呼吸も落ち着き始めていた。
「はぁ」
と、ため息のように呟いて、僕は汗を拭き終わったタオルで目を被う。タオル生地越しに差し込む光が鬱陶しくて目を閉じた。それでも入り込んでくる光は閉じた視界をぼんやりと視界を浮かび上がらせた。腕で視界を隠して、暗闇に落ちる。
頭の中でソーヤがさっき言った言葉が再生される。
「だから言ったんだ。早すぎるって」
分かっていた。自分でも分かっていた。自分の足が動かないことも、自分がやったことが無理矢理すぎるリハビリだったことも、それをやることが、自己満足に過ぎない事も。
僕は事実が理解できないほど子供ではない。事実を否定するほど子供ではない。それでも、ただ事実を受け入れようとするほど、僕は大人でもなかったということだ。僕のこの行為は現状への悪あがきであり、事実への挑戦であり、現実の再確認であり、時間の無駄だった。
ひょうひょうと事実を受け入れることが出来ているつもりだったのだけれど、発作的に試したくなり、その時は病院の中庭で歩行訓練をおこなっていた。もっとも、動き用のない足を動かそうとしているのだから、歩行訓練、というよりも悪あがきが的確だ。
毎回挑戦しては、汗だくになり、腕がふるえ、手が滑り、こける。翌日には腕がしびれるような痛さを抱える。何度繰り返してみても、挑戦後の絶望感と言ったら例えようもないのだが、それでも繰り返し、思いついては挑戦する僕は多分、意地で、意固地だ。
「もってきたぞ」
キュラキュラと、車輪の廻る音がして、ソーヤが僕のそばにきて言った。車椅子に乗ることには僕にとって既になれていることで、日常化していると言っても良いけれど、意固地で悪あがき好きな僕は地に足つけて歩くという行為に対してのあこがれを捨てきれない。かといって、決して車椅子が嫌いというわけではない。乗れば移動は楽だし、便利だ。階段とか、場所によっては移動自体に介助を必要とすることもあるが、最近の社会の変化は障害者に対して気持ち悪いほど同情のまなざしを向けてくれるようになっているので問題はない。同情と手助けには困りはしない。
「十分休んだだろ、早く起きろ」
「はは、ソーヤは厳しいなぁ」
そう言ってタオルを外して上体を起こす。両腕を起点に、体を後ろにずらして、下半身を滑らせるように。まぶたを開いて、光を受け入れる。眩しさに目を細めた。
「まぶしいね」
「もうそろそろ昼時だからな、日が高いんだよ」
こうやって体を起こせるようになるまで、どれだけかかったのだろう。今では思い出のようにしか思い出せないけれど、当時の僕にとっては最悪な日々だった。それと比べてみれば、今の状況はけして悪いものではないし、問題もかなり減ったほうだろう。そう考えれば、これ以上の高望みをする方が間違っているのだ。それでも。
「ねえ、ソーヤ」
「なに?」
「この世に魔法使いでもいてくれたら、僕はこんな思いしなくてすんだのかな」
「さあ、な」
「神様がいて、神社とか、教会とか、そう言う信心深い所で熱心にお願いすれば治るなんて方が奇跡だから。ちょっとあり得そうな所で、魔法使い」
「魔法で治るのか」
「そうだね、治るのも良いかもしれないけれど、元通りっていうなら時間を巻き戻してみても良いかもしれない。あのときまで巻き戻して、やり直せば良い」
「やり直した先が、今と同じとは限らないぞ」
「魔法で空を飛べるようになる、とか。移動はもう完璧だよ。車椅子もいらないし、腕で上体起こしてー、なんて動作もいらない。起きたいなーと思ったら体がむくりと起きる。あそこに行きたいなーと思ったら勝手に移動できる。超便利」
「便利な反面、かなり運動不足になりそうだけどな」
「じゃあもういっその事、みんなを僕と平等にする!さながら独裁者スイッチ!ちょっとベクトルは違うけど……、みんな僕の思いを知れば、苦しい思いもしなくてすむし、僕もやな思いをしなくていい」
「まず社会が機能しなくなるだろうけどな」
他愛のない会話を続けている間に、僕は車椅子に収まっていた。いつもの見慣れた視線の高さ、変わらない風景を見ながら、僕は言う。
「魔法があったら何でもし放題!」
「魔法がないから努力がある」
めった打ちの反論だった。なす術もない。自分でもわかっている事だったから、なおさらだった。投げやりに、こう訊くしかなかった。
「……起こるはずのないものを、何で人は考えちゃうんだろうね」
「……さあ」
「神様なんていないし、魔法使いもいない、この世に超能力者もいなければ、宇宙人もいない。どこかの女子高生が口走りそうな人たちは、ちょっとあたりを見回しても存在しない」
「……」
「それでも人が作り出したから、それをさす言葉がある。なんでだろうね」
とても意味のない質問だった。意味のなくて、遠回しの嫉妬を込められた、とても気持ちの悪い質問。起こりもしない奇跡を望む人が、奇跡のような瞬間にいる人を妬むような言葉だった。
いつもいつもいつもいつもいつもわかっている事なのに。答えのない問題に、答えを求める事が無駄であるとわかっている事なのに。それでも望む思いは捨てきれずにいて。
思いを声に出した方が楽だと言ったのは誰だったか、言葉に出してしまえば楽になると言ったのは誰だったか。
「みんなが望んでたからだろう」
ソーヤがぽつりと言った。車椅子が進み始める。
「意味として存在するのは、みんなが望んだからだ。ああ、魔法があればいいな、神様がいてくれれば、どんなにすばらしいだろうか、って。私個人は、人が他人に甘える事をやめられないから、空想の世界に魔法や神様を創ったのだと思ってるけど。それでも、世界中の誰もが、魔法使いや、魔法、神様って言う言葉を平等に知っているのであれば、みんなが望んでいることになるんだろう」
一人淡々と語るソーヤの声を背後から聴きながら、今までの世界を眺める僕。
「もちろんみんな、同じじゃない。けれど、みんな同じなんだよ、結局。大本の、根本は、甘えん坊で、空想家なんだ。だからあれば良いなって思うんだろ」
言葉は人だ。時に汚くて、時にやさしい。同じ言葉でも使い方と考え方が違えば、その意味も全く変わってしまう。それに対してのいちゃもんはいくらでもつけれる。意固地になりさえすれば、根拠の存在を無視しても、言葉は暴力になって、元の意味を粉砕して、自分の思いをぶつける道具になる。でも、その言葉が、みんなが思ってる事だよ、なんて言われたら、どうすれば良いのか。
僕は気になって、訊いた。
「それは、さ、ソーヤの持論?」
ソーヤはエレベーターがやってくる間、ずっと黙っていたけれど、扉が開いたときに、その重い口を開いて、言った。
「学生の頃、考えてた若気の至りの名残だな」
「なるほど。一理あるね」
魔法使いは、この世にいない。それでもこの世に存在はしている。意味として。言葉として。願望として。目には見えないけれど、存在している。それは何処か協同的で、共通的な思い。
もしかしたら、いや、そうでなくても、僕の思いも怒りも、そう言ったものすべてが、魔法使いと同じなら、どうだろうか。怒る気も、嘆く気も、失せてはこないだろうか。どうだろう。
「ところでソーヤ」
「なに」
「もし、魔法が使えたら、どうする?」
「空を飛ぶな」
地に足つけて歩く人も、同じ事を思うのだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
言葉の持つ意味、それをちょっと逆転させるだけで、こんなにも安心できる。
人が創った言葉って、すごい。
PR
「アーティストって憧れる」
ぽつりとトーマが呟いた。
私よりも低い位置にあるトーマの顔は、手にもった文庫本のページに釘付けになっていて、その表情は読めない。私がそんなことを思っている間にもぱらりとページはめくられて、文庫本に綴られた物語はそろそろ終わりを迎えそうだった。
私はその様子を少し上から眺めている。
快晴の昼下がり。
雲一つない青空の下は暑すぎるというトーマの進言で、私たちは公園の木々の下で昼食をとった。
トーマは私の手を借りて、普段乗っている車椅子から降りて芝生の上に座り、私といえばトーマが乗っていた車椅子に座っている。
「何かに寄りかかってご飯を食べたい」
そう言ったトーマに対して私は至極普通の提案として「じゃああの木に寄りかかって食べれば?」と言ったのに、「ごつごつしてて座りにくそう」とご不満を漏らすものだから私はトーマが寄りかかれるものとして、車椅子を提供することになった。
トーマは右車輪に寄りかかるように背をもたれて芝生に足をのばし、私はトーマがもたれた車椅子が動かないようにするために腰かける。一応両車輪にストッパーもしておいた。
木漏れ日の中で時折日に照らされるトーマの黒髪は、角度によれば茶髪にも見える。知り合った頃から同じ髪型を維持しているトーマは、その髪の色も「親からもらったものだから」と今時古風な意見で不動のヘアスタイルについて語っていたことを思い出す。それを知っている私としては、茶髪のトーマはあり得ないことなのだろうなと思った。
トーマのつぶやきから数分たっても、続けて「ねぇ、聞いてるんだけど」というトーマの催促がなかったので、先ほどのつぶやきはおそらく独り言なのだろうと結論づける。質問に聴こえないトーマの質問には少し時間をおいて判断するしかない、というのが、長い付き合いからくるトーマ対策の一つだった。
逆に下手に返事すれば返答なんてもらえず、すぐそばに相手がいるのに独り言を話したような孤独感を感じてしまう。知り合った頃は一種のいじめかとも思ったものだ。だが本人は全く悪気もないので余計にたちが悪い。
だから、私はトーマに言葉を返さず、その代わりに手元の弁当箱に残った唐揚げを頬張った。
程よい醤油の風味と鶏肉の香りが口に広がる。
この間友人に聞いた唐揚げの作り方は思ったよりも簡単で、これなら今後もメニューの一つとして加えられるかもな、と私は思った。
つづきはこちら
しょーとしょーと1
「ランダム液晶」
「その、メニュー開いた時のアイコンを押せば撮れるから」
「ここ?」
「そう」
昨日買った後、分厚い説明書に四苦八苦しながら設定しておいたシャッター音が鳴る。はじめに高音でスターターの音が聞こえて、次にドルル、と低音で唸るバイクのエンジン音を聞く。しかめっ面になって渡してきた画面に納められたのは、窓から見える夕焼けの町並みだった。
「なにこの音」
「エンジン音。かっこいいだろ」
「かっこよくないし」
うつされた夕闇の街はきれいな橙色にそまって、普段何とも思わない電信柱にさえちょっとした美しさを感じる。たかが携帯電話のカメラのくせに、と僕は思う。振り向くと、当の撮った本人はあきれた表情で僕を見ていた。夕焼けの逆光で焼けてもいない肌が小麦色に見える。
「そうかな」
「おかしいって、カメラのシャッター音なのに」
「でも、初期設定にはいろんな音が入ってるじゃん。犬の鳴き声とか、黒電話のベルとか」
「だからって、カメラのシャッター音をバイクにするのはおかしいって」
「えー、好きなんだけどな」
車輪が錆びついているのか、進んで行くたびにきしむ音が耳に聞こえる。使い続けてきた車輪だから古びるのも仕方がない。家に帰ったら油をさしておくべきかもしれない。
つづきはこちら